南信州阿南町新野 日本唯一の禅宗の即身仏「行人様」2022秋の祭典行われる

南信州阿南町新野 日本唯一の禅宗の即身仏「行人様」2022秋の祭典行われる

南信州阿南町新野の即身仏「行人様」の秋の祭典が、18日(日)3年ぶりに一般公開されました。

新野を見降ろす「新栄山」のお堂で行われます。ご開帳時間 午前9時~午後3時

18時30分~ 無病息災祈願の小規模な打ち上げ花火打ち上げ (打ち上げ場所:新野学校校庭)

行者健脚大会、大煙火大会は、新型コロナウィルス感染対策のため中止となりました。

この行人様の例祭は、4月29日と9月第3月曜日(敬老の日)の前日の二回行われます。

ご注意:行人様の御尊体の撮影は、固く禁止されております。ルールを守って御参拝ください。

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【行人様とは】
江戸時代初期、修行をしつつ入定し、生きながら即身仏(ミイラ)になった「心宗行順大行者」と通称。
出家前の名前は久保田彦左衛門。実在の新野の人物。1644年(正保元年)に新野に武士として生まれる。怪力で背丈が6尺(約180cm)の大男だったといわれている。
まじめな男で多くの人に親しまれていた。若いときは、山吹(現:長野県下伊那郡高森町山吹)のお殿様にお仕えしたお侍。武芸達者で仕事ができたため、お殿様に気に入られ異例の出世。2年余りお仕えした。しかし、周りの同僚の妬みを買い、居ずらくなったもあり、故郷新野、妻への恋しさも募り、26歳でお暇を頂き新野に帰る。

山吹から新野へ帰る途中、大下条(現阿南町大下条)深見の池のほとりに亡霊が現れた。その姿は妻のお柳によく似ていた。

新野の戻りしばらくしたある日、彦左衛門が山に薪を取りに行った留守中に家が火事になり、最愛の妻と子どもを亡くしてしまう。

彦左衛門は、深い悲しみに暮れた。この世の無常を感じた彦左衛門は、神仏の力にすがることを思いつき、
新野の名刹瑞光院の南岸和尚に出家を申し出て弟子になる。名を「行順」と改め、瑞光院にて仏門に入った。
しばらくして、更に厳しい修行をして悟りを開くために全国行脚の修行に出た。

修行に出るにあたり、鼻緒まで全て鉄製の下駄、手には大きな錫杖、頭には銅の笠をかぶった姿で、行順は富士山御嶽山白山高野山恐山等の日本各地の霊山にこもり、荒滝に打たれた。火を使った食事を断つ木喰行を行いながら、過酷な修行を17年間続けた。

【行人様の逸話】

その記録は、京都三十三間堂の建立記の古文書にも登場する。

ある日、三十三間堂の建設中、太い棟木がどうしても上がらず大工らが困っていた。すると、群衆の中から粗末な身なりの旅の僧侶が現れ、何やらお経を唱えた。すると、今までびくともしなかった棟木がスルスルと上がった。
大工らが驚いて「あなた様のお名前は?」と聞くと、「信濃の国 行順」とだけ言って、群衆の中に消えて行ったという。

また、ある時は、東海道の大井川の渡しで、何日も雨が降り続き、川止めが続いてみんな困っていた。
そこへ旅の僧が現れ、川に向かってお経を唱えると、雨が止み、しばらくして大井川の水が引いて行ったという。

また、ある時は、日照りが続き水不足で困っている村に、旅の僧侶が現れ、村人を集めて、お経を唱えた後、鉄の錫杖を地面に突き立てて、「ここを掘りなさい。水が湧くであろう。」と言って立ち去った。村人が掘ってみると、行順のいった通りそこから泉が湧きだしたという。

また、修行の途中、東海道遠州今切の関所に来た時、通行手形がないので通してもらえなかった。行順は、自分の一生の行いをここに残して還らんと決心し、不動の気持ちで呪文を唱えつつ、7日7晩立ち尽くした。関所の番人は驚き、早速通行を許した。役人の罪を責めず、鳥のように空中を走って関所を通るのを見ていた役人らは、驚いて皆手を合わせて拝んだ。それを後に見つつ行順は早速、遠州今切の関を渡っていった。時は貞享3年師走のことだった。

こんな伝説が数多く残っているのだ。

 

【行人様の入定】

さて、17年の厳しい修行を終えて新野の瑞光院に戻った行順は、妻子の17回忌を済ませると、余命があまり長くないことを悟り、最後の修行場として瑞光院の奥山の山頂に石室を作る。
そして、幼友達の栗生惣兵衛に後を託した。「もし、鐘が聞こえなくなったら、見に来てほしい。そして、10年後掘り出してほしい。」
村中の安全、五穀豊穣、子孫繁栄を願いながら、水だけを飲みながら、鐘を叩いてお経を唱えつつ、7日後鐘の音が途絶え石室の中で一人入定した。1687年(貞享4年)43歳の時だった。こうして、久保田彦左衛門(行順)は、「心宗行順大行者」=通称「行人様」となった。(詳しくは 天龍村坂部に伝わる古文書「熊谷家伝記」に記載)

また、これは、「心宗行順大行者和讃の詠歌」として現代でも詠い継がれている。

 

【信仰の始まり】

入定されて10年後、栗生惣兵衛が行人様を石室から取り出して、村人らがお堂を建てて御尊体を祀り、瑞光院の僧侶たちによって大法要が営まれたのが、行人様信仰の始まりと言われている。それまで瑞光院の奥山と呼ばれていた山を行人様信仰の元に、新野の栄えを願う山ということで、「新栄山」と名付けた。

入定から72年後、台風の為お堂が山頂から森の中に飛ばされる事故が起こった。慌てた村人らがご尊体を拾い集めてお堂を再建し厨子に納めたが、鉄下駄、錫杖、笠、鉦などは森の中に埋もれて不明になった。

それから100年たった1860年の秋、キノコ採りに山へ入った村人が錫杖と鉄下駄の右足を見つけて自宅に持っていたが、夜な夜なうなされるので瑞光院の和尚の元へ届けた。「これは、鉄下駄、錫杖が行人様の元に戻りたがっておるのだ。」と言ってお堂に安置したら、うなされる事もなくなったという。この鉄下駄、錫杖は現在もお堂に安置されていて、ご開帳の折には見ることができる。なんと鉄下駄は、行人様の足形にすり減っているのが分かる。壮絶を極めた修行が本当に事だったことが分かる。

本日、令和4年9月18日 参拝時に許可を得て撮影させていただきました。

 

現在日本には16体のミイラが存在するが、長野県に現存する唯一の即身仏。新野の行人様はその中でもきれいなお姿で残っている。青森の恐山周辺に多い即身仏は、入定後に手を加えて即身仏として御尊体を保存することが多いが、新野の行人様は手を加えたという話はなく、自分の強い意志で入定され、そのまま完全な即身仏として現在も残っている。現在も、修復、衣替えなど行人様の御尊体に触れるのは、栗生惣兵衛の子孫だけが許されている。

火災で妻子を亡くし仏の道に進んだ行人様。300年以上地元の人に守られながら、現代に家族愛の大切さを伝えている。

【現代の新野の暮らしと行人様】

行人様は、相当なパワースポットであることは間違えない。私は、毎年お参りしお守りを購入し、自動車に付けているせいか、交通事故から守ってもらっていると感じている。また、新野には「行人様」を始め、「新野の雪祭り」「新野の盆踊り」など、神仏を大切にして生活する風習がある。人間の力を越えた存在に対して畏敬の念をもって生活することは、家族や自分、友だちの命、作物、道具や物の命、自然までも大切にして感謝して生きることであり、それが皆が幸せに生きられる先人の知恵なのではないかと感じている。神仏や自然を敬うことでお金では買えない幸福感という豊かさを先人は残してくれた。こんな山里の暮らしを大切にし後世に伝えたいと思い、私はこのホームページで発信をしている。都会では失われてしまった心の豊かさの中で生活したい方がいたら、移住してきて頂けたら幸いです。当サイト内の移住体験の申し込みからご連絡ください。

行人様に関するWikipedia くわしくはこちら

過去の行人様祭典の様子

【行人様大煙火大会 二尺玉入り超豪華大スターマインもある】

今年は、小規模な花火大会にとどまりました。

2018年撮影:金田 誠 (新野出身の写真家 元共同通信社カメラマン)

https://mobile.twitter.com/kanadama

https://www.facebook.com/kanada.makoto

 

2018年の行者健脚大会

早く、来年は復活されますように。

皆様のご参加をお待ちしております。

 

 

 

 

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